「鬼滅の刃」にはアドラー心理学的要素があった

社会現象になった「鬼滅の刃

 

なにがこれほど人々の心を惹きつけるのだろうか。

ストーリーの面白さは言うまでもないが、やはり一番は主人公の竈門炭治郎をはじめ、魅力的な登場人物であることは間違いない。

 

そして今回はこの竈門炭治郎の思考がとてもアドラー心理学的である。それについて書いていきたいと思う。

 

 アドラー心理学の概要を書いた記事があるので、興味がある方はこちらの記事も読んでいただきたい。

rabbit77.hatenablog.com

 

アドラー心理学は「目的論」である。

人の行動は原因では目的によって決まるのだ。

因みに、かの有名な心理学者フロイトは「原因論」である。

過去を悔やむのではなく「目的」に向かって進んでいる

炭治郎の言動は徹底的に「目的論」といえる。

なぜそう言い切れるのか。

 

炭治郎の目的はただ一つである。鬼にされた妹を人間に戻すこと。それだけだ。そしてそれは決してブレることはない。

 

もし、原因論で考えるどうなるのか。

「何故自分家族が惨殺されたのか」

「何故妹は鬼にされたのか」

「なぜ鬼殺隊はもっと早く来てくれなかったのだ」

そんなことばかり考えて過去を悔やむことしかできない。

 

だが、炭治郎は違う。そんな事を考えるより今自分がやるべき事は何かを考えているのだ。

悔やんでも殺された家族は戻らない。自分にできることは妹禰豆子を人間に戻す方法を探すことなのだ。

 「課題の分離」ができている

 炭治郎が鬼狩りをするのは誰かに感謝されたり認めて欲しいわけではない。むしろそんなことはどうでもいい。ただ自分にできることだけに集中しているのだ。

強くなり、鬼舞辻無惨を倒すことが禰豆子を人間に戻す唯一の手段であり炭治郎の目的なのだ。 

自分にできることは鍛錬を重ねて強くなること。諦めずに訓練を続けること。それだけだ。

 

自分のやるべきことをやる。つまり「課題の分離」がしっかりできているのだ。

共同対感覚を持っている

アドラー心理学ではこの「共同体感覚」がキー・コンセプトとなっている。

共同体感覚とはなにか。一言でいうと他者貢献である。

 

炭治郎だけでなく鬼殺隊は皆この「共同体感覚」を持っている。

鬼殺隊の幹部である9人の「柱」たちは、親兄弟を鬼に殺された辛い過去を背負っている者もいる。自分と同じ悲しみを他の人に味わって欲しくない。そのために鬼を殺すのだ。今ある幸せを失わないように。

彼らは人の幸せのために自分の命を賭して戦っているのだ。

炭治郎はなぜくじけないのか。なぜ強いのか。

それは明確な目的があり、その目的達成だけを考え行動する。

人の心に寄り添う(それが鬼であっても)ことができ、他人の幸せのためなら自己犠牲も厭わない。

「自分軸」を持っていて決してブレない。

それこそが炭治郎の強さの源ではないのだろうか。

 

アドラー心理学を意識すると鬼滅の刃の新たな魅力が見つかるかもしれない。

全ての悩みは対人関係の悩みである ~アドラー心理学~

「全ての悩みは対人関係の悩みである」

 

アドラー心理学ではこう言われている。

本当にそうなのだろうか。

 対人関係以外でもお金や仕事など、他にも悩み事はある。

 アドラーの言う通り、全ての悩みは対人関係だというなら金銭的な悩みもまた、対人関係に起因するのだろうか。

 

わからなくもない。

 

私達はなにかと人と比べてしまう。

 他人の年収が自分より多い、自分より大きな家に住んでいる。

 そう考えると、たしかに対人関係の悩みと言えなくもない。他人と比較するから悩んでしまうのだ。

 

仕事上での悩みはどうだろうか。

 上司が評価がしてくれない。同僚がサボってばかりいるせいで自分の負荷が増える。

対人関係の悩みといえなくもない。

 

アドラーはそんな対人関係の悩みに対処法を示してくれている。

 

課題の分離

 

「自分の課題」「他人の課題」を分けて考えることが極めて大事だ。

 

馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。

 このことわざはご存知だろうか。

 

「馬を水辺に連れて行くこと」は自分の課題

「水を飲む」のは馬の課題

水を飲むかどうかを決めるのは「馬」なのだ。

 

例えば、先の例の「上司が評価してくれない」と言うことにモヤモヤしているとしよう。

この場合、「評価する」という行為は上司の課題だ。つまり「他人の課題」だ。

 あなたの課題は「評価してもらえるよう、日々の仕事で成果を出す」ことなのだ。

 

他人をコントロールさることはできない。コントロール出来ないものに悩んでも意味がない。

 他人の課題に干渉しようとするから悩むのだ。

自分に出来ることのみ、つまり自分の課題だけに注力すべだとアドラーは言っているのだ。

 

人は変わらない

 

他人を変えることはできない。変えることができるのは自分だけなのだ。

もし、他人が変わったと感じたのならば、それはあなたが変えたのではない。あなたが変わったのだ。あなたの見方が変わったのだ。

 

他人の感情や行動に振り回されるのを止めて自分軸を持ち、自責思考になることで対人関係の悩みは軽くなるのではないかと思う。

 

内部留保を貯めることは悪なのか。内部留保とは何なのか。

内部留保は悪!?

内部留保を溜め込む会社は悪だ!」
「儲かっているのなら社員の賃金を上げるべきだ!」

 

これは意見は正しいのか?

 

正しいと思ったあなた。内部留保とは何なのか。
答えられる人はどれくらいいるだろうか。

内部留保とは何か?

売上から様々な経費等を引いて最終的に算出された「税引き後利益」、所謂「利益剰余金」である。

 

これが内部留保の正体である。

 

「そんなことは知っている。だからその利益を従業員に還元するべきだ」
そう思われるかも知れない。

 

では、その内部留保は何で構成されているのか。


現金なのか。
確かに現金も含まれる。

 

だが、現金だけではない。

 

そこには設備投資で購入した工場や設備、株や債券も含まれる。

そう、現金だけでなく投資にも回している。

だから賃上げしろと言われても、そんな簡単にできるわけがない。

そこを間違えないでほしい。

 

先にも述べたとおり、内部留保は利益剰余金だ。

会社が毎年利益を出し続けたらその利益は蓄積される。
毎年1億円の利益を出している会社は、毎年1億円ずつ内部留保が増える。

10年間毎年コンスタントに1億の利益を出し続ければ内部留保は10億円になる。


つまり、利益を出し続ける限り、内部留保は増え続けるということだ。

(固定資産等は減価償却されるので実際には内部留保は減少するが、複雑になるのでここでは考えないものとする)

 

逆に、内部留保が減るということは、会社が赤字を出していると言うことに他ならない。

会社が存続するためにも内部留保は必要

多くの会社は常に成長し、事業拡大を目指している。
利益が出れば何かしら投資をし、生産性を向上させ、さらに利益を上げていく。だから成長していると言えるのだ。

 

それには原資、つまり内部留保が不可欠なのだ。

財務諸表に出てこない、隠れた重要な資産

結局会社が儲かっても従業員には還元されないのか。頑張っても賃金は上がらないのか。

 

決してそんなことはないし、あってはならない。
財務諸表にはこそ現れないが、「人は資産」だ。
人に投資することは将来の利益を生むことに繋がる。

 

生産性を高め、更なる利益に貢献している従業員にはしっかり還元すべきだ。

それができない企業は従業員に見放され、いずれ淘汰される。

 

コロナ禍では従業員の雇用を維持できなく会社も多いだろう。

内部留保があるならリストラは必要ないと思うかもしれない。

 

それはあくまで内部留保を現金で貯め込んでいた場合だ。

現金があれば、当面の給料の支払いもできるだろう。


だが、現金以外のもの、特に設備等の場合はそれを売却してしまうと事業そのものの継続が不可能になる。

現金をすべて吐き出してしまうワケににもいかない。

倒産してしまっては元も子もないのだ。

結論

話が少し逸れてしまったが、内部留保を溜めるとこは悪なんかではない。むしろ健全に経営している証ではないだろうか。

 

マスコミが「企業の内部留保が過去最高だ。」などと騒ぎ立て、悪いことのように報道する。

 

はたしてそれは本当なのか?


本当なら、なぜ会社は内部留保を溜めるのか。

ただ鵜呑みにするのではなく考えてみてほしい。

本当に悪なのかを。

文章を書く時の5つの注意点

世の中動画やSNSでの情報取得が主流だと思う今日この頃。

 

先のブログでも書いた通り、私は動画を検索するのはあまり好きではない。

しかし世の中の流れには乗ることは必須。

ニーズがあるモノを提供すべき。

 

だからと言ってYoutubeなどの動画を作成するつもりはない。

それなら、動画派の人でも読みやすいモノを書いたら読んでくれるのではなかろうか。

 

そんな動画派にも読みやすく書くにはどう書くべきか。

どんな文章が読みやすいのか。

これがわからないと、このブログも誰の目にも止まらない。

 

そこで、ブログを書く上で気をつけるべきことを考えてみた。

読みやすい記事とはどんな記事か 

・1文が短い

・改行多い(1文章ごとに改行してる)

・余白が多い

・結論が最初に書いてある

・内容も簡潔で短くまとめられている。

 

こんなところだろか。

相手目線であることが大事

書き手は言いたいことを全部伝えたい。そうなるとどうしても冗長になってしまう。

大事なのは 読み手にわかりやすく伝えることだ。

 

言いたい事をシンプルに、ストレートに伝える。

かっこいい言い回しなんかよりよっぽど伝わるのと思う。

口頭でも同じことを注意する

口頭で伝える時に同じことが言える。

ダラダラと冗長な話は聞き手を疲れさせてしまう。

 

伝える手段は違えど、「相手目線」かつ「わかりやすく」は、どんなシチュエーションでも気を付けるべき重要事項である。

 

どのように情報取得すべきか。時短ならブログ一択。

ブログはオワコンか!?

「ブログはオワコン」

 

最近よく耳にする。

確かにyoutubeのような動画配信やSNSで調べ物をする人が増えているようだ。

手軽だし、映像はわかりやすい。

 

しかし、私は動画より断然ブログ等の文字情報で調べる。

 

それは、

 

文字の方が「時間が圧倒的に短く済む」

 

からだ。

 

例えば、アニメ。

1話30分。でも30分あれば単行本1、2冊読めるだろう。

ドラマも然り。1時間かけてみてるわりにそこまで進んでいない。

 

私が定期購読している、とあるメルマガの作者さんはとても親切だ。

なんと、メルマガに同じ内容の動画を添付してくれている。

 

折角なので最初は動画も拝見していた。しかし次第に動画は見なくなった。

動画は自分のペースで進まない。

それ故、時間がかかる。

 

私の体感では文字から情報を得る時間の数倍(もしたら数十倍?)動画は必要だ。

つまり、時間の費用対効果は動画より文字情報の方が上なのである。

 

それに文字情報だと前に読んだところを探すのも簡単で、読みたい箇所を探すのも簡単である。

検索機能を使えば簡単どころか一瞬でおわる。

 

もちろん、動画でも文章でもメリット、デメリットはある。

百聞は一見にしかず。動画だからこそ伝わることも多々ある。それは否定しない。むしろ賛成だ。

 

しかし時間は有限だ。

 

情報過多の世の中、情報も取捨選択が不可欠である。

短時間で情報が取得できるブログはまだまだこれからも現役であり続けると思う。